今月の表紙 宮下幸治 (株)オリィ研究所 代表ロボットコミュニケーター吉藤健太郎

●文:吉井 勇・本誌編集部
●写真:川津貴信

 弊社刊の『電子メディアの近代史』がある。1996年10月10日刊行で、監修者に故和久井孝太郎氏を迎え、戦後日本の電子メディアと産業の発展に「井戸を掘った」先達80人の証言と、和久井孝太郎氏が独創的視点でまとめた電子メディア総合年表(1403〜1996)、通称「和久井年表」を掲載した大著だ。

 この年表をまとめた和久井孝太郎氏は、山形なまりに親しみやすさを感じさせつつ、その論点は鋭く、メディア論を哲学思想からも展開している。技術者としての顔は、NHK放送技術研究所(技研)でテレビカメラの研究開発の中心メンバーとして1964年東京オリンピックの中継用カラーカメラなどを開発。1986年から電通顧問となり、放送やメディアの将来展望について技術史を踏まえた文化論的アプローチを目指したが、昨年8月に逝去された。

 和久井年表は、1403年の「朝鮮太宗王、青銅活字で大学衍義印刷」から始まるが、電子メディアの動向は、1916年に米で行われたラジオ定期実験放送から蠢動する。当時日本は大正デモクラシー、世界を見ると1917年10月革命でソビエト政権が成立という20世紀激動の始めと重なる。

 テレビ技術はどうか。ロシア生まれのツヴォリキンが米WHで、テレビ撮像管「アイノコスコープ」の研究を開始。日本では6年後の1923年、浜松高工の高柳健次郎氏がテレビ研究を開始。3年後の1926年、英のベアードが機械式テレビジョン実験を公開。日本では早稲田大学が機械式テレビ方式の研究を山本忠興氏、川原田政太郎氏が始め、高柳氏の浜松高工が同年12月25日、大正天皇崩御の日、ニポー円板撮像とブラウン管受像方式テレビで「イ」の字を初めて表示した。当時、米、英、ソ、仏、独、日の列強がテレビ放送の実用化を競う。

 最も早くテレビ試験放送を開始したのは独で、1935年3月に走査線数180本方式で行う。本放送は英が一番乗りで、1937年2月からBBCが405本方式で始める。そこでは走査線数を競うHD(High Definition)化も行われていたのである。日本は1940年の幻となった第12回オリンピック東京大会でテレビ放送実施を目標に、最高レベルの走査線数441本を目標に、カメラ搭載自動車、映像送信車、音声送信車、テレビ受信車などを1935年の試験放送開始までに自作。同年8月、技研のテレビ塔から電波を発射し、都心の放送会館や三越デパートで受信し一般公開した。テレビの開発は戦争で中断したが、戦後に素早く再開し、1948年6月、走査線525本を技研で公開。さらに1950年6月、技研のテレビ実験局から銀座三越デパートに送り、人気を博した。

 1952年、日本のテレビ方式を巡って大決定が行われた。米方式のモノクロテレビ「帯域6MHz」に対して日本は「7MHz」を主張、電波監理委員会が米6MHzに決定。これを受けて1953年2月1日、NHK東京テレビジョン局が開局、受信契約866、1日4時間放送が始まる。それから遅れること半年、8月28日、日本テレビが民放として開局、街頭テレビを都内など42カ所に設置。当時の放送機材の多くを輸入に頼っていた。

 1964年、東京オリンピックで日本のテレビ放送は大きく飛躍する。延べ100時間のカラー中継実施の他、スローモーション技術、通信衛星シンコム3号で米欧各国へ中継した。当時のテレビ技術者は「世界をリードするテレビ技術を確立」という自信を得た。

 オリンピック後、技研は新しいテレビの開発に取り組み、1972年CCIRにHDTV研究を提案。1981年、米FCCとSMPTEに初めて高品位テレビ(当時のハイビジョンの呼び方)を公開。1985年には科学万博つくば博でハイビジョン映像を公開。1989年昭和天皇崩御の年、NHKはBSの本放送を開始し、1日1時間のMUSEハイビジョン実験放送を始めるなど、平成のハイビジョン時代へ突入。そして阪神・淡路大震災があった1995年、技研で8Kスーパーハイビジョンの研究開発が本格化した。和久井年表からテレビ方式の変遷を簡単に振り返ってみた。