●文:渡辺 元・本誌編集長
●写真:川津貴信
NTTは昨年10月、量子現象に基づく新しい計算原理を使ったコンピュータの開発に成功したことを発表した。開発は内閣府革新的研究開発推進プログラム(ImPACT)の一環として、NTT物性科学基礎研究所量子光制御研究グループの武居弘樹主幹研究員、稲垣卓弘研究員らのグループが、国立情報学研究所、大阪大学、東京大学、スタンフォード大学のグループと共同で行った。このコンピュータの方式は「量子ニューラルネットワーク」。創薬、通信ネットワークの最適化、ディープラーニングといった幅広い分野で利用されている「組み合わせ最適化問題」を高速で解くことに特化したコンピュータだ。
組み合わせ最適化問題としては、複数の都市を最短時間ですべて経由する経路を求める「巡回セールスマン問題」が有名だ。「この問題では、セールスマンが巡回する都市の数が増えると組み合わせの数が爆発的に増えてしまい、従来のコンピュータで全ての組み合わせを総当たり計算すると、解くのに非常に時間がかかってしまいます。それに対して量子ニューラルネットワークは、組み合わせ最適化問題を物理システムである『相互作用するスピン群(イジングモデル)』に置き換え、この物理システムの現象を使って極めて短時間で解くことができます」(武居弘樹主幹研究員)。
ここで使用する相互作用するスピン群は、最初はスピンの向きがランダムな状態。そこに組み合わせ最適化問題に相当するスピン間の相互作用を入れると、相転移現象が起こり、一瞬でスピン群は系のエネルギーを最小化するスピン配列の「イジングモデルの基底状態」となる。組み合わせ最適化問題はイジングモデルの基底状態を探索する問題に変換可能なので、この原理でさまざまな組み合わせ最適化問題を解くことができる。
量子ニューラルネットワークでは、相互作用するスピン群を量子的な性質を持つ光で実現する。0またはπの位相しか取らない特殊なレーザの発振器である光パラメトリック発振器(Optical Parametric Oscillator:OPO)を使って、位相0を上向きのスピン、位相πを下向きのスピンに対応させて相互作用するスピン群を作る。OPOに与えるエネルギーをゼロにした状態で、そこに組み合わせ最適化問題の情報、例えば巡回セールスマン問題における各都市間の距離の情報に相当するスピン間相互作用をマップする。そしてOPO群にゆっくりエネルギーを与えることでレーザ相転移が起こり、OPO群はイジングモデルの基底状態となる。
現在、さまざまな方式の量子コンピュータが研究されている。素因数分解に特化したゲート型量子コンピュータは、従来のコンピュータとの差が明らかになるまでビット数を増やすことが非常に難しいのが課題だ。ゲート型の研究で世界を牽引し、Googleが出資しているカリフォルニア大学サンタバーバラ校(UCSB)のジョン・マルティネス教授のグループでも9ビットで、それが現在世界最多だ。それに対して量子ニューラルネットワークは現在2,048ビットに達している。そこまでビット数を増やせるのは、レーザ発振器を使った量子ニューラルネットワークは外部からのノイズの影響が比較的少なく、デバイスに対する要件が小さいからだ。
同じイジングモデルを使った方式の一種である量子アニーリングリング型は、こちらもGoogleが出資しているカナダのD-Wave Systems社が世界初の商用量子コンピュータとして発売し、ロッキード・マーティンやNASAなどが購入している。
これも組み合わせ最適化問題に特化したコンピュータだ。D-Waveマシンは昨年秋の時点で1,152ビット。ビット数では量子ニューラルネットワークの約半分だが、どれだけ複雑な問題を解けるかという性能につながるスピン間の結線数は、D-Waveマシンの約3,300に対して量子ニューラルネットワークは約400万と格段に多い。D-Waveマシンはスピンに超伝導固体デバイスを使用し、1デバイス当たり6本のワイヤーで結線するため結線数が少ない。「一方、量子ニューラルネットワークはリング状の1本の光ファイバ内を2,048のスピンが周回していて、その光を近似測定した測定結果とどのスピンとどのスピンをつなげるかの結合情報を光ファイバリング中のスピンにフィードバックするという仕組みですので、ワイヤーなどの手段による複雑な結線は不要です。1本の光ファイバリング上で各スピンは自分以外の全スピンと結合できるため、約400万の結線が可能になります」(武居氏)。量子現象を使ったコンピュータのビット数、結線数としては史上最大だ。ビット数が増えるに従って、量子ニューラルネットワークの優位性はどんどん大きくなる。武居氏はImPACTのプログラムが終了するあと2年間で、最低限でも2万5,000ビットの実現を目指す。「数万〜10万ビットが実現する可能性も高い」と言う。
研究グループは、量子ニューラルネットワークの2,000ビットマシンをインターネットで利用できるクラウドサービスの実現開始を目指している。武居氏はネットで一般の人や研究者に開放することに大きな期待を寄せる。「非常に複雑な最適化問題を解ける可能性があるコンピュータをいろいろな方に知っていただく良い機会になります。実際に使って評価していただいたり、使い方の提案をしていただいたりする我々の仲間を増やしていきたいと思っています」。それと併行して、次世代の1万ビット以上の高機能マシンの開発も進めていく。これまで存在しなかった計算能力を人類が手にする日は、すぐそこまで来ている。