月刊ニューメディア 2011年8月号掲載
連載 メディア関係者のための国際情勢
早稲田大学日米研究機構が国際シンポジウム開催 アジアの安全保障と日米の役割を議論(前編)
早稲田大学日米研究機構(WOJUSS)は6月9日・10日、第4回国際シンポジウム2011「変容するアジアと日米関係」を早大で開催した。複数の講演、パネルディスカッションの中で、講演「アジアの安全保障と日米」では、中国の軍拡や海洋進出などで不確実性が増すアジア地域の安全保障における日米の役割について重要な議論が行われた。
(取材・文:渡辺 元・本誌編集部)
「日米の高度な相互運用性」のインパクト
一人目の講演者、渡部恒雄・東京財団政策研究事業ディレクター(外交・安全保障担当)上席研究員は、ゲーツ米国防長官が6月にシンガポールで開催されたアジア安全保障会議(シャングリラ・ダイアローグ)で、「米国は引き続きアジア太平洋地域の安全保障に積極的にコミットする」と述べると同時に、東日本大震災と原発事故対応で日本と協力して実施したトモダチ作戦について詳しく発言したことに注目した。
「この(トモダチ作戦での日米の)協力はアジア太平洋地域にインパクトを与えた。少なくとも日米同盟が十分機能するということをアピールすることになった。ゲーツ米国防長官の言葉の中で重要なのは、『日米の高度な相互運用性』(がトモダチ作戦によって確保された)と言ったことだ。日米の相互運用性を達成するために、自衛隊は300人規模の支援部隊が横田基地で米軍と活発に情報交換を行った。戦争や事故などの非常事態で致命的なのは、情報共有ができないことであり、情報の共有は死活的に重要だ。今回このような形で日米が動けたことは、日米にとってプラスであるだけでなく、アジア太平洋の公共財にとって重要だ」と、トモダチ作戦における日米の高度な相互運用性確保の意義を指摘した。
キャパシティビルディング支援の重要性
また渡部氏は、トモダチ作戦が行われていた4月に米下院軍事委員会で、アジア太平洋地域の米軍のトップであるウィラード米太平洋軍司令官が議会証言を行い、アジア太平洋地域での米国のミッションについて説明したことに言及。「その中で(ウィラード米太平洋軍司令官は)、北朝鮮の核開発、中国の著しい軍事近代化と不明瞭な意図への対応という伝統的安全保障に加えて、津波、地震、火山の噴火などの自然災害、パンデミック、飢餓などの課題を挙げた。このような課題に対して日米同盟あるいは日本が独自に支援をしていく必要があるということは、アジア太平洋諸国では常識化している。この部分はこれからますます重要になるだろう」と述べた。
また、シャングリラ・ダイアローグで北沢俊美防衛相が、「今後災害に対するキャパシティビルディング支援(専門家を他国に派遣したり、研修員を日本に受け入れて教育するといった支援)などにより、役割を果たしていきたい」と述べたことを挙げ、今後キャパシティビルディング支援を日本独自で、あるいは日米同盟が行うことによって、アジア地域のアクターの中で日米同盟、日本、米国のプレゼンスがそれぞれ重要であるという認識がもたらされると語った。
トモダチ作戦の戦略的意図
さらに渡部氏は、米国がトモダチ作戦で延べ2万4,000人の米軍の人員、190機の航空機、空母2隻を含む24隻の艦船を動員するという、平時には考えられない大規模な作戦を展開したことの戦略的意図について、日本が震災によって経済的に弱体化し内向きになることで、アジア太平洋地域における米国と中国のバランスが著しく悪化することを防ぐためであり、これもアジア太平洋地域全域の共通課題であると指摘した。
シャングリラ・ダイアローグでベトナムのタイン国防相が、5月に南シナ海でベトナムの探査船が中国の監視船に妨害された事件に関して、「この事件の再発は望まない。中国はいつも平和的解決の重要性を口にするが実行が伴わない」と発言したり、フィリピンのガズミン国防相が、南沙諸島周辺で中国の建造物が新たに見つかったことに関して、「我が国が管轄する海域の健全な環境を破壊する行為だ」と中国を批判したことを渡部氏は挙げて、「シャングリラ・ダイアローグのような対話の場で問題意識を共有しながら、中国を責めるというよりは過度な対立にならないようにすることが、これから非常に重要になってくる。日本も協力していく必要がある。これは中国包囲網を作るということではなく、中国を誘導しながら引き続き東アジア、太平洋地域を安定させることだ」と述べ、そのために日米同盟、日本の役割は重要であると論じた。
二人目の講演者、植木千可子・早稲田大学大学院アジア太平洋研究科教授は、冷戦時代に日米同盟がアジア地域の安全・安定に貢献することを可能にした四つのメカニズムを指摘した上で、冷戦後にそれがどう変化し、将来に向けて日本はどのような新しいメカニズムを構築する必要があるのかを論じた。これについては、次号の「後編」に掲載する。
(次回に続く)